1986年4月26日、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国プリピャチのチェルノブイリ原子力発電所で起きた爆発事故。この未曾有の大惨事は、のちに超大国のソ連が崩壊した一因になったとも言われ、数多くのドキュメンタリーが作られた。2019年に米HBOドラマ「チェルノブイリ」がエミー賞10部門を独占したことも記憶に新しい。
そしてこの度、他作品とは全く違った視点で描いた映画『チェルノブイリ1986』が完成した。人々の日常生活や生命をどれほど脅かし、彼らの人生に壊滅的な影響を与えたのか。事故発生当時、現地で撮影した経験を持つプロデューサーが、爆発直後に現場に急行した消防士たちの苦闘や避難民たちの混乱ぶりなど、一般市民の視点からリアルに映し出した、映画だからこそ描けた衝撃の真実。
若き消防士アレクセイは、元恋人オリガと10年ぶりに再会を果たし、彼女とともに新たな人生を歩みたいと願っていた。ところが地元のチェルノブイリ原発で爆発事故が起こり、それまでの穏やかな日常が一変。事故対策本部の会議に出席したアレクセイは、深刻な水蒸気爆発の危機が迫っていることを知らされる。もしも溶け出した核燃料が真下の貯水タンクに達すれば、ヨーロッパ全土が汚染されるほどの大量の放射性物質がまきちらされてしまう。
愛する人のためタンクの排水弁を手動で開ける決死隊に志願したアレクセイだったが行く手には、想像を絶する苦難が待ち受けていた…。
1985年5月生まれ。
サンクトペテルブルク国立劇場芸術アカデミーの演技/監督コースに入学。アカデミー在学中に「リア王」のエドガー役で舞台デビューを果たし、多くの演劇賞を獲得する。アカデミーを卒業後、本格的に俳優業に進出しドラマ、映画に出演。『タイム・ジャンパー』(08)の主演を務め知名度を上げる。2010年のベルリン国際映画祭のパノラマ部門で上映された『Jolly Fellows』(09)でドラァグクイーンの役を見事に演じ、世界的に注目される。2012年の『ゲット・ザ・ワールド』が大ヒットしロシアで大ブレイク、人気俳優の仲間入りを果たす。その後ロシアで活躍後、『ヴァンパイア・アカデミー』(14)でハリウッドデビュー。2016年にはロシアに戻り『フライト・クルー』『ハードコア』『VIKING バイキング 誇り高き戦士たち』と立て続けに出演。その後も『マチルダ 禁断の恋』(17)『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』(18)などに出演し役者としても盤石な地位を築く。『The Coach』(18)では初監督を務め、そのマルチな才能が注目されている。
1987年4月生まれ。
セルゲイ・ボドロフ監督の息子で俳優のセルゲイ・ポドロフ・ジュニアにその才能を見いだされ、12歳でデビュー。2001年にはポドロフ・ジュニア初監督作『Sisters』で映画初出演を果たす。2002年にはスウェ―デンのルーカス・ムーディソン監督作『リリア4-ever』で主演に抜擢され、ヨーロッパ映画賞主演女優賞ノミネートを始め、数多くの国際的な賞を受賞した。その後、『ボーン・スプレマシー』(04)『モスクワ・ゼロ』『ミッション・イン・モスクワ』(06)『ウルフハウンド 天空の門と魔法の鍵』(07)『ヴァーサス』(16)『スプートニク』(20)など多数の映画に出演。アクション、SF、ドラマなどジャンルを問わず幅広い作品で活躍している。
1961年7月生まれ。
キエフ国立映画演劇テレビ大学を卒業し、1983年から監督としてのキャリアを始める。ドキュメンタリー『さらばUSSR』(94)では、ロシア映画賞NIKAで最優秀ドキュメンタリー賞、山形国際ドキュメンタリー映画祭国際批評家連盟賞を受賞した。1990年から1993年まで、ドイツのテレビ局ZDFでプロデューサー、映画監督として活躍。1994年に彼はウクライナに戻り、国内で最初の独立テレビチャンネル1 +1を立ち上げた。2009年には映画制作会社を設立。2011年には『父、帰る』のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督作『エレナの惑い』の製作をし、第64回カンヌ国際映画祭ある視点部門で審査員特別賞を受賞した。2014年にはロバート・ロドリゲス監督と組み『シン・シティ』の続編『シン・シティ 復讐の女神』をプロデュース、また同年に製作したズビャギンツェフ監督の『裁かれるは善人のみ』は第67回カンヌ国際映画祭脚本賞、第72回ゴールデングローブ賞外国語映画賞を獲得、第87回米アカデミー賞外国語映画賞ノミネートなど多くの賞に輝いた。その後も『ラブレス』(18)『殺人狂騒曲 第9の生贄』(20)など多くの作品を手掛けている。
『チェルノブイリ1986』の構想の源は、本作のプロデューサー、アレクサンデル・ロジニャンスキーの実体験にあった。チェルノブイリ原発で爆発事故が起こった1986年当時、ロジニャンスキーは自らの目でその惨事を見たのだ。ロジニャンスキーが語る。「当時、私はドキュメンタリー映画の監督で、事故発生の5日後にチェルノブイリに派遣され、緊急対応の様子を撮影しました。私はこの出来事の多くを、細部に至るまで身をもって知っています。事故後の3年間、同じ目的で何度か再訪したし、この事故を題材にした長編映画を作ろうと何度も試みてきました」
そんなロジニャンスキーの熱意が実った本作は、チェルノブイリの事故の原因を明らかにすることではなく、事故によって人生が崩壊し、激変してしまった人々の物語を伝える作品となった。ロジニャンスキーが再び説明する。「日常生活の中では必ずしも倫理的、もしくは勇敢な判断を下せない普通の人々が、災害発生時に自らを危険にさらしてまで他人のために行動できるのはなぜなのか。これは非常に興味深い問いであり、私たちは本作を製作する中でこの問いに答えようとしました。本作はひと握りの人たちの物語を描いていますが、実際にはそのような人々が何千人もいたのです」
製作のロジニャンスキーは、脚本完成前の段階から監督を探し始めた。彼が必要としていたのは、観客の感情を揺さぶることができて、なおかつ現代的なスタイルで壮大な映像やイメージを表現できる監督だった。そしてロジニャンスキーの目にとまったのは、すでに俳優として成功を収めていたダニーラ・コズロフスキーの監督デビュー作『The Coach』(18)だった。ロジニャンスキーが振り返る。「『The Coach』が始まって30分ほど経った頃、自分がこれまでになく非常にプロフェッショナルで、感情的で、誠実で、そして何よりも献身的なメインストリーム映画の監督の作品を見ていることに気づいたのです」 ロジニャンスキーからのオファーを受け、監督と主演を兼任したコズロフスキーは、本作について次のように語る。「原発事故の規模はもちろん重要ですが、私たちが目指したのは原発事故が人々にどのような影響を与え、彼らがどのように感じたのかということです。事故が彼らをどのように変えたのか、そして彼らがどのような疑問や選択に直面し、いかなる決断を下したのかを見せたいと思いました」。コズロフスキーは「この映画を大きなスクリーンで観てもらいたい」と語り、その最大の理由を説明する。「これは人間そのものについての物語です。そして人間の複雑かつ難解な感情や自己犠牲について、さらには意志や性格にかかわらず運命がいかに人々を不本意なヒーローにするかについての物語なのです」
チェルノブイリの事故については、無数の目撃証言、記事、書籍、アーカイブ映像が残っている。この膨大な資料を整理し、索引をつける必要があったため、製作チームはインスピレーションの源となるそれらの資料をオンライン上のデータ格納庫に保存した。 また製作陣は、消防士、医師、エンジニアらを含む事故の当事者にインタビューを行った。それはコズロフスキー監督にとって感動的な体験だった。「モスクワの第6病院で働いていた女性医師とのインタビューでは、胸が締めつけられる思いがしました。彼女は原子炉建屋の炎を消すために最も苦しんだ消防士たちが、最初に入院してきたときのことを話してくれました。若くて陽気な消防士たちは冗談を言い続けていましたが、医師たちはもうすぐ全員が死んでしまうことを知っていたのです」
製作チームは原発に関するリサーチを行い、クルスク原子力発電所を訪れた。プロダクション・デザイナーのディムール・シャギアメドフが語る。「クルスク発電所を外から見ると、まるでチェルノブイリのようだったことを覚えています。ふたつの発電所はまったく同じ設計図で作られていたので、歴史の一部を見たような忘れられない瞬間でした。これ以上の撮影場所はないと確信しました」。それは不可能と思えるアイデアだったが、本作の大部分は実際にクルスク発電所で撮影された。コズロフスキー監督が語る。「ロスアトム(国営原子力企業)と政府の支援には大変感謝しています。作品の意図を理解してもらうのに時間がかかりましたが、最終的には信頼と理解を得て、この複雑で野心的なプロジェクトを実現することができたのです」
● 60万人以上の人々が事故の後処理に従事。事故が直接の死因となった死亡者数を正確に測定することは不可能である。事故後の急性被曝、やけどなどで死亡したのは31名。一方、国際がん研究機関(IARC)は事故処理作業者、避難民、高度汚染地域に居住していた人などにおいて事故の影響で増加するガン死亡は4,000人と推計する。チェルノブイリ原発事故は、今でも原子力史上最大の災害と言われている。チェルノブイリ原発事故の後、世界各国で原子力発電所の新増設が滞ることになった。
● 主演の一人であるニコライ・コザックは1986年当時兵役中だった。彼は元々キエフへの配属を希望していたが、却下されていた。キエフに配属された同僚たちは原発事故の後処理に回され、ニコライは二度と彼らと会うことはなかった。
● 本作には300人以上の映画スタッフが参加し、当時のことを知る人も多く関わっている。
● 撮影は2019年夏、クルチャトフ・クルスク原子力発電所の高セキュリティ施設でのロケのほか、ロシア、ハンガリー(オリゴスタジオ)、クロアチアのサウンドステージで行われた。
● 一部のシーンでは最大500人のエキストラが参加している。
● 稼働中のクルスク発電所で行われた火災現場の撮影には、約400本のガストーチが使用された。
● スクリーンに登場するすべての俳優は、1980年代当時のオリジナルの洋服を着用している。ダニーラ・コズロフスキーの鮮やかなシャツは彼と同い年。
● メイクアップアーティストのアレクセイ・イヴチェンコは、登場人物の放射線障害の各段階をアルバムにまとめて参考にしていた。放射線による火傷の種類は約100種類ある。
● 1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所の事故が発生。4号炉が爆発により全壊し、発電所周辺の30km圏内から10万人以上が避難を余儀なくされた。 現在も立ち入り禁止区域は居住に適さないとされている。爆発の原因は、発電所の安全システムに関連する欠陥要因が重なったことにある。